そして今回も自己肯定感についての続きですね。前回までの記事はこちら↓
今回、どう展開していこうか考えていたんですが、やはり具体例を挙げたほうがわかりやすいだろうと思いまして、こんな図を書いてみましたよっ。
THE・思い込みの図です。
因みにこの図の特に下のほうは、管理人トヨの思い込みです(照)
闇が深いですね~でも輪廻転生という名の病にかかっている人間は、自覚なくても多かれ少なかれこんな感じの闇を抱え込んでいるものです。だからつい生まれ変わっちゃう。
(あ、この図は結構テキトーに書いちゃったのでご了承ください)
一番下の『私はいちゃダメな存在だ』が、一番深くて根幹となるものですね。
これ、瞑想で自分の内面を観ていたときに、或る記憶と共に言葉としてポッと浮かんできてビックリしたヤツなんですけど、『いちゃいけない』でもなく『いてはいけない』でもなく『いちゃダメ』っていうところが、いかにも子供の頃に創ったって感じがしますよね。これぞまさにインナーチャイルドって感じ。
それまではひとつ上の階層の『私は迷惑な存在』とか『私は愛されない存在』あたりまでしか把握できていなくて、なぜそう信じたのかずっと謎だったんですけど、この『私はいちゃダメな存在』という言葉と記憶が浮かんできた瞬間、ごちゃごちゃしていたものが一気に整理されてひとつにまとまった感覚がありました。
もちろん、あくまで“現時点”のものなので、今後更に深く観ていくと、また出てくる可能性はありますけどね!
さぁ、ではせっかくなんで、この図を簡単に説明しましょうか。
一番下が潜在意識の最奥、根幹の思い込み。
上にいくにしたがって、顕在意識(自覚可能な意識)でも認識できるものになっていきます。
どの位認識できるかは、ほんとうに人それぞれですね。ほとんど自覚できない人もいれば、かなり深いところまで観ることができる人もいます。
深いところのものほど、『私は・・・』と自分を縛るものになっていて、それが顕在意識に上がっていくほど自分の思い込みを世界へと拡大させていきます。『私はこういう存在だ』が『だから私はこうあるべきだ』となり、それが『人は・社会は・世界はこうあるべき』というふうに変化していくわけです。
この図はかなりテキトーに書いているのでわかりずらいかもしれませんが(ゴメンナサイヨ)、上にいくほど細分化され、あらゆる出来事、あらゆる他人や自分自身に対してこれらの思い込みを物差しにして毎瞬間、善悪や好き嫌いを決めたり、感情を創ったり、実際に行動に移したりしなかったりと判断を下しているもんで、人間の内側っていうのは(心の働きを浄化したり客観視や自己制御の訓練をしない限り)、まぁとにかく大忙しでブラック企業並みにヤバい状態ってことになります。
こうやって図にしてみたり、「○○すべき」「○○してはいけない」「私は○○だ」「私は○○ではない」など実際に書き出してみると、人間がいかに自ら創った思い込みによって意識を引っ張られ引きずられ、ガチガチに自分を縛っているか、わかりますよね~
そもそも管理人トヨの『私はいちゃダメな存在だ』なんて、自分が世界に存在すること自体を許していないわけですから、これもう大変なことですよ。「なんでこんなことになった!?」って話です。
もちろん、良い悪いということが言いたいわけではないです。そう・・・だって、自分の身を守ったり社会生活を調和的に送るためにあったほうがいいものもありますし。
ここで大切なことは、たとえ世間や親や学校社会などの影響によるものであったとしても、全ての思い込みは“自分自身”が引き受け、選び取ってきたものであるということです。たとえ自己存在を否定するような思い込みであっても、いつかの自分が、自分の都合・必要性によって創り上げ、自らを縛ってきたということは、大前提として強くお伝えしておこうと思います。
だから、思い込みの責任の所在は、やっぱり自分にあります。そして、そうでなくてはいけない(と個人的には思います)。
だってもし“親のせい”だとしたら、親に何とかしてもらわない限り、私たちは永遠に縛られ続けることになるからです。そういう縛りが好きならそれもまた一つの人生としてアリとは思うけど、せっかくここまで来たのなら、親に執着し続けて時間と精神エネルギーを消耗するよりも、そのエネルギーを自分に投入し、自力で自分を自由にしてあげるほうが有意義・・・かもしれません。
はい。
ではこれらを踏まえた上で、管理人トヨの思い込み『私はいちゃダメな存在だ』について、少し一緒に観ていきましょうか。
私の場合、幼いころ母からこんな話を聞かされました。
『(トヨを)妊娠中つわりがひどくて家で横になって休んでいたら、突然お父さんが帰ってきて「仕事もせずに怠けやがって」とすごい形相で怒鳴りつけられた』と。
当時妹を妊娠中で、その時も母は父から罵倒されたり(その様子は私も目撃しています)他にも色々と厳しい扱いを受けていたため、愚痴をこぼさずにはいられなかったんでしょうね。何かあるたびにこの話を何度も私にしてきました。
で、その話を聞いていた幼い私は、いろんな選択肢がある中で
『私がお腹にいたせいでお母さんがお父さんから怒られた』
と解釈し、
『私さえいなければよかったのに』
と考え、
『私はいちゃダメな存在なんだ』
と結論づけたわけです。
・・・ん~天使か!!!
子どもって恐ろしいほど純粋でピュアで無垢で、泣けてきます。
母が悲しい想いをしないで済むためにそのとき思いついた一番いい方法が、自己存在の否定だったというね。
まぁそれでもこの思い込みって母が悲しい想いをするのが嫌だというところから生まれた“自分の願い”によるものだったので、結局は自己都合だったりはするんですけど。
さて。
前回の記事で、『自己肯定感を高めるための内的な作業を行うためには、自分の都合は排して、事実は事実として認める強さが必要になります。』と書きました。
説明したように、自己存在についての思い込み(認知の歪み)を修正していくためには、誤った思い込みから自分の都合を取り除いていく必要があるんです。
記憶を切り分けてとことん客観視して、ひとつひとつ、事実と真実、自分の都合と思い込みを確認しながら考察していきます。
以下は私がいつもやっているやり方です。
私という≪存在≫に向かって意識を向けて深く熟考していき、そこにくっつけている愛着や憎悪、偏った観方や自己都合な願望などをひとつひとつ確認しながらそぎ落としていくイメージで、徐々にシンプルにしていきます。
最終的には、ただ、≪存在≫のみが浮き出てくる感じになります。
決まった形があるわけではなく、本当に人それぞれ記憶も思い込みは異なるのでこういう手順でやればいい!!と一括りには言えませんが、客観視のやり方だけでも何かしら参考になるかもしれないなぁと考え、つらつら書いてみることにしました。
では参りましょうか。
こんな感じです。
- まず、何より自分が幼かったこと。これは事実。
⇒脳(前頭前野)の機能が未発達であり、当時は客観的な判断は難しかっただろう。 - 母について。
⇒母が幼い私に何度もこの話を聞かせたことについては事実。これについては、幼い子こどもへの心理的影響を考慮できなかった母は、制御力と客観視力と想像力の欠如、余裕の無さ等があったかもしれないが真実は不明。どちらにせよ母の内面の問題は母自身が取り組む課題であって、私の問題ではない。父との関係性についてもおそらく色々あっただろうが、これも彼女の課題であって私の問題ではない。 - 父について。
⇒妊婦の妻に対する罵倒について、これは父の制御力と客観視力と想像力と思いやりの欠如と仕事の余裕のなさによるストレス等によるものであったことは想像できるが、真実は不明。でもこれらは父自身が内面と向き合うべき課題であって私のせいでも私の課題でもない。 - 『私がお腹にいたせいでお母さんがお父さんから怒られた』これは真実?
⇒父の罵倒の動機については真実は不明。事実は“母は私を妊娠してつわりになった”こと。しかしそのことと、つわりで苦しむ母を父が罵倒したことを原因と結果として結びつけることはできない。世界中のつわりになった妻が必ず夫から罵倒されるわけではないから。むしろこの出来事は、父母各々の向き合うべき課題と、夫婦の関係性の問題を原因として、それが母への罵倒という結果として表出しただけのものであったということが考えられる。つまり、“私がお腹にいたせいで”という理屈は原因にはなり得ないため真実とは言えない。 - 『私さえいなければよかったのに』これは真実?
⇒確かに私がお腹にいなければつわりになることもなく、この出来事は無かったかもしれない。しかし母にはこの体験を通して取り組むべき課題があるハズで、その母の課題を押しのけてまで、自分という存在を滅することによって状況をコントロールしようとしているのは私の課題だ。頼まれてもいないのに母を悲しみから救おうとしているその意識は、母に対する愛着・執着であり、母を無力で可哀想な存在だと決めつけてしまっている無智さの現れだ。執着と無智からきている考えに、真の愛は無い。愛でない以上、この『私さえいなければ・・・』という考えは真実ではない。 - 『私はいちゃダメな存在だったんだ』これは真実?
⇒いちゃダメ、という判断をしたのは自分だ。他の誰でもなく、自分自身がこの世界に存在することを許していない。これは私の課題だ。ただし、いちゃダメな存在というのは誤った観方だろう。この結論に至るまでの考えが真実ではないから。そして何より、無限な真我たる≪存在≫に対して居ることを許さないという判断をしていること自体、≪存在≫に対する誤認知が認められる。存在は“永遠に在る”ものであり、制限されるものではない。有限な肉体の一部でしかない脳の機能で無限の≪存在≫は否定しようがない。つまり『いちゃダメな存在』という判断自体がそもそも全く意味がないものだ。 - 自分という存在を否定する目的・メリットは何?
⇒それは母が悲しまないようにするためだ。そして母が悲しむと自分がつらいからだ。 - 自分さえいなくなれば、母は悲しみから解き放たれる?
⇒いや、それは違うだろう。母の悲しみの体験を、自分という存在がコントロールすることはできない。それはエゴだ。母を救うのは母自身だ。私ではない。 - あらためて、“いちゃダメ”だと判断したのは誰?
⇒それはエゴ(小我)の自分だ。幼かった私が、母が悲しい想いをしてほしくないという願い・欲望から生み出した考えだ。肉体という制限の掛かった小我の意識が、真の自分(大我・真我・神我)を忘れて、存在に制限を掛けて自己否定することを選択した。 - 私はいちゃダメな存在?
⇒いや違う。この肉体も、世界も、宇宙も、取り巻く全てがここにいる私という存在を生かす方向で動いている。何一つ、誰一人、私にいちゃダメだと言っていない。小我の意識でいくら自己存在に制限を掛けようが、いちゃダメだと思おうが、ここにいる私は、居る。在る。ということは、私が世界に存在することを大きな意識である真の自分が既に許している。存在することを許し続けて、許され続けて今、ここにいる。これは事実。 - 私という存在とは?
⇒ここに在る。それが全てだ。否定しようがなく、それだけが事実だ。 - この思い込みから学んだことは何?
⇒自分が存在することに疑問を持った。そしてたくさん経験を積むことができた。内側に意識を向けて真の自分に向かうためには必要だった。 - この思い込みによって培われた今後活かしていける長所は?
⇒全体を把握する力、忍耐力、自制力、観察力、思考力、思いやる力、察する力など? - 今後この思い込みは必要?
⇒十分学んだ。自分に制限を掛けて苦しむ体験はもう必要ないだろう。
ざっとこんな感じ。
結構端的な文で書いてますが、実際はもっとゆ~っくり、静か~に、じ~っくり、内側に寄り添うように自分と向き合います。
私の場合は瞑想状態となって深いところで熟考するので、表面上の思考でグルグル考えるのとはちょっと違うんですが、こうやって理屈に合わない考え方や、執着、自分の課題を整理していきながら、不要なものを取り除いていく感じです。
瞑想ができる方は、感情の波を静めたあと、内側に問いを投げて返ってくるまで待ってみてください。自ずと湧き上がってくるものがあると思います。それ以外の方は、客観視して課題を切り分けて整理していく様子だけでも感じ取って頂ければと思います。
ポイントは、頼まれてもいないのに“私のせい”にして自分をいちゃダメな存在だと決めてしまっているところです。ここが自己都合なので、それをベリベリとメッキを剥がすように、取り除いていくイメージ。
まぁメタ的に観ると、当時は自分を悪者にすることが最善の策だったんじゃないかな。もしあの頃自分のせいにしなければ、罵倒した父と聞きたくない話を何度も聞かせる母のせいってことになっちゃいますから。生存という観点からも、父母を憎むような視点を持っちゃうと幼い私が生きていくうえで支障が出てきますし、何より父と母が本当に純粋に大好きだったということです。大人・・・というか、魂の視点から観ると、結局誰のせいでもないんですよ。父には父の課題があり、母には母の課題が。そして私には私の課題がある。ただそれだけのことです。
もうひとつのポイントは、自分以外の登場人物(このケースでは父と母)については、最低限のことだけ考察して、決して深追いはしないことです。無意識で自分にくっつけてしまっている彼らの課題を自分から切り離すこと。それと“自分のせい”だと信じるに至った不合理な理由の部分を、「これって不合理だよね」と認識していくのに必要なところだけを観ていきます。もし深追いして、「彼らはどうしてああなんだ」「どうやったらこの苦しみを彼らにわかってもらえるんだ」なんて考え始めると、本筋から遠のくだけなのでご注意を。自分以外の登場人物は自分を知るための材料でしかなく、あくまで≪存在≫から目を離さないことが大切です。
あとは、お気づきかもしれませんが、感情についてはほとんど触れていません。感情って思い込みを探るうえでは目印になるんですけど、思い込み(認知の歪み)を修正するという観点からみると核心にはなり得ないからです。記憶に対する捉え方を変えない限りいくらでも無尽蔵に湧いてくる感情は、それだけをいくら触っても認知は修正されません。記憶をどういう認知で捉えているか、そしてどういう別の観方があるのかが重要だと考えています。そういう理由で、私が取り組んでいる熟考のやり方ではあまり感情にフォーカスしません。むしろ感情に引きずられないよう意識しながら、カウンセラーやハイヤーセルフ目線をもって(意識を高いところに引き上げて)、静かにあたたかく自分の内側を確認しながら観ていく感じですね。
なお、このやり方は私の性質・特質(深く考えることが得意)に合ったものだと思うので、合わない人も絶対います。いろんな療法・セラピーがあり、考え方もそれぞれありますから、自分に合うやり方を探していかれるのがいいと思います。
だから人によっては『私はいちゃダメな存在なの?』って自分に聞いて『いていいに決まってるでしょ!理由なんていらないわよ。』って心底思えたら、もうそれで完了です。
大切なのは『私いてよかったんだー』と腹落ちする感覚があるかどうか、です。
そこまでくれば、あとは日常生活の中での自分育成DIY作業の日々です。
思い込みは元の状態に戻ろうとするものです。インド哲学で簡単に理由を説明すると、これ、もし≪存在≫を完全に悟ったら戻ってこないんですけど、熟考レベル(まだまだ浅いレベル)での修正なので記憶内に想念の種子が残存印象として残ったままになっているからです。この残存印象に引きずられない訓練を続けることで、想念の種子が発芽しないようにもっていく必要があるんです。
記憶はある。それはただの記憶でしかない。
私はここに在る、これでいいんだ。
という認識が出来上がると、自己肯定感を低める原因(思い込み)から自分を切り離し続けることができます。
なので自分育成DIY作業!
ベルトコンベアー式に運ばれてくる類似体験のたびに「また来た!」って気づいて「いや違ったわ。私、いていいんだった」って思いなおす作業をコツコツやり続けること。その際には前々回の記事で説明した対処療法的やり方も使えそうなやつがあればうまく使っていけばいいと思います。
例えば、私ここにいないほうがいいんじゃないかという不安が差し込んだときは、
アファメーション
「大丈夫。ここにいてもいいよ。私がいる場所が私の居場所だよ。」
「いてくれてありがとう。」
思い込みとしっかり向き合って自覚しているからこそ、ぼんやり対処療法を使うより、明確にドスンと響く言葉がけを自分にしてあげられると思います。
はい、今回も書き上げるのに時間が掛かっちゃいました。
無意識の思い込みをどうやって意識化するかという重要な部分をすっ飛ばしたので、次回書こうかなと思います。感情と記憶について掘り下げてみるかもしれません(未定)。
あとは、思い込みによる自己評価をぐりんとひっくり返して強みとして再認知する方法も。
次回へ続きます。
それでは!





