“ぼっち”という体験を通して、人生が自分に何を求めているのかを知る

はい!ブログ記事のタイトルが雑になりがち、管理人トヨです。

こちらは続きものです。まずはこちらの記事から読んでね!
(1)孤独感について自分の体験を振り返ってみたら、なかなか奥深かった
(2)宇宙人魂の女の子と孤独感回避のための過剰適応と突然の気づき

前回は、終わりのない長州小力のパラパラダンス(モノマネ)によって自分の疲労困憊具合に気づき、その飲み会が果たして人生に必要な時間なのかについて思い至り、結果、静かにその飲み会を失礼して家に帰って昏々と寝たというお話でした。

ここまで読まれた方は、なんとも変な話と感じるかもしれません。
でもこの長州小力の一件から、私の人生は急激に変化し始めることになります。

どういう変化かというと、それまでは関係を壊さないように、言葉にせず胸に留め置いていた辛辣な言葉たちが、私の意思に反してツルリと口から出てくるようになったんです。

言った本人も驚いちゃう!みたいな、ね。

例えば、「フツーさぁ・・・」「常識的に考えてさぁ・・・」が口癖の、“自分の基準=世界の基準、私こそが世界の常識”みたいな会社の同僚がいたんですが、その方に対していきなり「いや~ホントくだらないですねぇ、何をもってフツーなんて言ってん・・・( ゚Д゚)ハッ」とか。

はたまた、会議で発言を求められたときに「ていうか、どうせホントは誰もやりたくないんでし・・・(; ゚Д゚)ハッ」とか。

挙句の果てには、無理やり連れていかれた会社の飲み会で、上司のカラオケ熱唱中に突然立ち上がり、「帰りたいので帰ります」と言って去り、次の日冷静になって_| ̄|○ チーンってなる・・・とか。

人生をかけた徹底的抑圧状態から、今度は針が真逆に振れてしまったような・・・。

長州小力の一件で開いた蓋のすき間から、これまで押さえつけてきた本心が制御不能となって溢れ出てきた感じでしたよ。

更におかしなことは個人的な関係にも起き始めます。

当時仲良くしていた友達グループと縁が切れてしまったんです。

実はそのグループのメンバーとは対等感が感じられなくて、そのことを意識しないようにしつつも心のどこかでは気づいていたし、いつも気を使って接していたので、関わるとすごく疲れてしまっていました。

でも、仲良くしてくれているから・・・貴重な“友達”だから・・・と、あの頃は嫌われないように頑張って顔色を伺い、周りの都合に合わせて振る舞い、いつもの過剰適応スキルを発揮していました。

ところが、なぜかちょうどこの時期に突然原因不明の病気(今は治っています)を患ってしまい、勤めていた会社も辞めて養生することになり、それまでのように遊べなくなってしまうと、その人たちからピタッと連絡が来なくなりました。あんなに毎日のように連絡が来ていたのにね。

でも、“さもありなん”という感覚で受け止めました。そうなることが容易に想像できた、ということです。むしろどこかでホッとしたような気分でした。

これはこれでいいよね・・・なんてことをぼんやり考えていながら養生していたら、これまたなぜか追い打ちをかけるようにスマホが突然壊れてしまいました。その友達グループとはスマホのLINEでのみ繋がっていたので、連絡が取れなくなって、それっきりです。

もちろん頑張れば、別の知り合いにもう一度関係を繋げてもらうことはできたかもしれませんが、そうすることはありませんでした。

なんだかこの状況に至る流れが完璧すぎて、これはもう手放したほうがいい・・・という気がしたからです。

そして私はいよいよ、ぼっち街道を突き進むことになります。

“ぼっち街道”と聞くと、すごく微妙な響きに聞こえますかね(笑)
でも私はこれを、結構前向きな意味で発信しているんですよ。

というのも、その後の私の状況は、ぼっち街道の道半ばでありつつも、これまでにないほど恵まれた人間関係を得ることができているからです。

原因不明の病気になって仕事も辞めて、経済的にも困窮し、頑張ってつないできた友達との縁も指のすき間から砂塵が流れ落ちるようにあっという間にこぼれていく体験を経て・・・。

いや~本当に、人生のどん底に感じた体験だったなぁ・・・。

でもね。
どん底まで行き着いたその場所で、私あきらめなかったんですよ。

希望を求めて、自分の心と体を救うために情報をかき集めて、いろんな活動をしている人たちに会いに行きました。そしてそこでの出会いに助けられ、私は徐々にどん底から這い出していくことになります。

そう・・・このときに師匠とも出会えましたし、今でも本当にお世話になっている何でも話せる大切な仲間であり尊敬する人生の先輩方にも出会うことができました。

そして、こうした方々と接することで、これまで私が築いてきた人間関係がいかにいびつだったのかを、体感として知ることになりました。

というのも、皆さん、“自立”していらっしゃるんですよ。自立した存在がどういうものか、人とどう関わるのか、どういう考え方をしているのか、わざわざ言葉にせずとも身をもって教えてくださるんです。

自立であって、分離とは違う。人に頼ることを躊躇しない、人に与えることも迷わない。伝えたいことはハッキリ穏やかに伝える。自分の内側と繋がり、周りに流されず内面の真実に従って生きる。人とのつながりを楽しみながらも自分らしく在ることを選ぶ。

近くにいるだけで、違いがわかります。
この方たちは、きっと私を嫌いになることはないだろう、そして私の一部分だけで判断することはないだろうと、直感的にわかります。とっても穏やかであたたかくて、筋が通っていて、私の本質をきちんとみてくれる人たちだとわかるんですよ。

私は過剰適応を極めた過剰適応のプロであると同時に、違いがわかる女でもあったんです。ここが一つのポイントでした。

自立した存在の振る舞いを体験させて頂くことで、過剰適応状態に陥っている自分とどう違うのかを客観的に観察することにもつながり、自分の内側にどのような思い込みがあるのかに意識を向けることにもなり、どういう自分になっていきたいかという具体的なビジョンも描くことが可能になっていきました。

そうしてふと思い出した幼少期。人間関係に縛られず、どこまでもマイペースで自由だったあの頃の自分の感覚。それと、想いのままに生きていた、私を「お母さん」と呼んだ宇宙人魂の同級生の女の子。

あぁ、私は人生の中で、すでに体験していたんだ!見せてもらっていたんだ!この感覚を欲してたんだ!と気づきました。私の人生には『自立』というテーマが大きな流れとしてセッティングされていて、だからこそ一連の過剰適応体験が必要だったんだ!とも。人生が私に何を求めているのかを理解した瞬間でした。

本当はどう在りたいのか、どういう自分になっていきたいのか、ありのままの自分とはどういう自分なのか、それまであまりにも無理して演じてきてしまったため、全くわからなくなっていた本当の自分、嘘のない自分、とても、とっても大切な感覚。

全ては“自分へ還ることを明確に理解するに至るため”の出会い、体験だったんだと感じています。

さて、最後に。

ヨーガの聖典(ヨーガ・スートラ)に独存位(カイヴァルヤ)という言葉があります。ものすごくざっくりと、わかりやすい言葉で説明すると、

自分(観る者)とそうでないもの(対象物)とを完璧に識別(客観視)すると、自分(観る者)は永遠に自分自身の中にとどまり、歓喜と自由の状態(解脱)となり、これを『独存』という
・・・のですが、私はヨーガを学び始めてこの言葉を知ったとき、自分の中に元々備わっていた“ぼっちを自由だと感じる感覚”が、魂の学びという視点では結構正常なものだったんじゃないかと考えて、あらためて“ぼっち街道”に自信を深めたことがありました。

「なーんだ!魂ってどんな段階に在る人も、いずれはもれなく“ぼっち街道”に合流して、“ぼっち”に関する体験を経て自分と向き合って、やがては自分に還っていくんじゃ~ん!笑笑」ってなりましたよ、納得感すごかったです、えぇ。

そして、この“ぼっち街道”こそが、真の自立を学ぶルートだと確信しています。魂の自立・独存位への試行錯誤を行う段階。たくさん傷ついて、孤独を感じることもあるけど、魂の成長という視点から観ると、それもまた大切な経験なんだと思います。

だからね、この世界で“ぼっち街道”を進む皆さん!
どうぞ、そんな自分を思いきり肯定してあげてください。

“ぼっち”上等!!

大丈夫ですよ。
まずはそれでいい。

その上で、自立したつながりを求めて動いていけば、必要なら出会うようになってるみたいですから。

私も相変わらず“ぼっち”です。過剰適応が通用しない自立した人たちの中で、自由な“ぼっち”を学ぶ旅をしています。

魂の自立、独存位。

“ぼっち”というどちらかというとネガティブ寄りな概念に、新しい風と視点を感じてもらえたらいいなと思いながら書いてみました。

何かの参考にして頂けると幸いです。

それでは!