前回までは、おもに『人生の目的』について書きました。
「人生の目的を自覚して生きるのと無自覚になんとなく生きるのとでは、全く別の生き方になるよ!」っていう感じの内容でしたね。
そして今回はいよいよ『魂の目的』についてです。
魂の目的とは、いわば人生全ての瞬間に流れ続ける意識の川のようなもの。
全ての存在がその川の流れに乗っていて、行き着く先はみんな同じ。
向かうはただひとつ、究極の最終目的地。
魂の目的をよく理解しておくことは、私たちが自力で人生の目的を知りたいと思ったときや、人生の目的を果たすために課題に取り組むとき、大いに助けになります。
さぁさぁ、魂の目的とは一体なんぞや!?
あ、因みに魂の目的と人生の目的との違いは前々前回の記事↓に書いてるはずなので、ご参照ください。
魂の目的とは?人生の目的とは?その違いとは?
魂の目的とは?
いやー困った困った。
上で「さぁさぁ」とかいって煽りぎみに前置きしといてなんですが、じつはすでに上でリンク貼った前々前回の記事で、魂の目的とは?の答え、出しちゃってたんですよ・・・
『真の自分を知る(悟る)』
これですな。
もう出ちゃってるから、正直これ以上書くことないかも・・・完全に構成ミスった。
でもそこは!
気づいたらメガ長文を生み出し自分で驚いてしまう系、自己探求限界オタクのトヨさんですから。
どこぞから絞り出し、ひねり出し、こねくり回していくはずです。
トヨさん、やれる子ですから。
自分を信じる力・・・それこそが不可能を可能にする・・・かもしれない・・・しないかもしれない(迷走中)
そもそも私たちはどういう存在?
で、インド哲学のお話をします(唐突過ぎ)
インド哲学では、魂=真我 とされています。
真我・・・真の我=真の自分
真我(真の自分)を悟ること(=解脱)こそが、人間として肉体を纏い輪廻転生を繰り返す意味であり、究極にして唯一の目的であるといわれています。
そして私たちが真我を悟るための『体験』と『気づき』を与えてくれるものが、自分自身の身体(心の働き含む)や、外側のあらゆるもの(他者や物質など)です。
これらは真我にとって、気づきの材料として私たちの人生に現れているものですが、同時に迷妄(心の迷い)を生み、惑わせ見失わせ、欲望や執着などの苦しみを生む要因にもなります。
要は、私たちは、迷妄の世界にどっぷり浸って自分を見失いつつ、いずれはその迷妄から抜け出して『真の自分を知る(悟る)』ためにたくさんの体験をして気づきを得るべく肉体をもってこの世界に存在しているということですね。
あ、やば、太字タグ入れすぎた。
でもどう考えても、ぜんぶ太字にせざるを得ない。
だってそれくらい、ここ ↑ はめっちゃ大事なのです。
読みにくかったらホント、すみません。
・・・でもきっと以下も『線引き太字赤文字フェスティバル』になりそうな予感キテる。
真の自分を錯覚する自我意識
実は本来、真我はすでに解脱した存在なんですよ。
絶対的な唯一無二の存在であり、永遠であり、神的意識のひとしずくでもあり・・・。
真我とはいわば、純粋なる観照者。
自身にのみ留まる(=何者にも一切影響を受けない)純粋なる意識そのものなのです。
本来真我は何にも影響されず、ひたすら『観る』側の存在ってことですね。
でもそれが身体の束縛を受けることで、自我意識が芽生え、記憶や認知、感情、意思、感覚、生理現象などという身体特有の粗雑な機能がドーンと付与されます。
これによって自身にのみ留まり安住していた意識が、感覚の働きによって外側のものへとずいずい引っ張られていってしまうんですね~
外側のものに対して「欲しい」という欲望が生まれ、「私のもの」という所有の意識が生まれ、あらゆる体験によって記憶が印象として蓄積され、過去の印象や出来事によって揺さぶられる感情によって正常な判断が難しくなり・・・・・・
そんなこんなで、まぁ簡単にいうと、肉体次元の自分の意識が“真の自分”のことを誤って錯覚しちゃうのです。
で、本来はただ観てるだけの存在なのに、錯覚によって自分以外(肉体、思い込み、記憶、地位、お金、家族、恋人などなど)と真の自分とを混同しはじめるんですよ。
だから、社会的地位がある自分=偉い みたいな不思議な勘違いが発生するわけです。そしてそれにまんまと執着する・・・と。
いやー人間存在の仕組みっておもしろいですよね。
いくらでも語れそう。
錯覚して忘れ去った自分を思い出す旅
いくらでも語れそうなので、ついでにもう少しだけ・・・
トヨが個人的にめっちゃ興味深いと思っているのは、記憶と認知機能なんです。
自分自身の身体的機能なのに、これも錯覚の原因になるんですよね。
制御できず、ずるずる引っ張られていきます。
たとえば幼いころに『物覚えが悪い』と周りから言われて育った場合、その記憶や認知に引きずられ、大人になっても『物覚えが悪い自分』を真の自分と錯覚し続ける・・・というような感じです。
確かに肉体の機能的な側面で、脳みその記憶力には人それぞれ違いはあるかもしれません。
だがしかし!
肉体の機能を物差しにして、「それが自分だ」と思うのは、よーく考えるとおかしい話なのですよ。
ほんの一側面でしかないし。
しかも記憶力も、いろんな要因で変動しますからね。
変化する上辺だけのもので真の自分を定義することなんてできないです。
何より、そんな制限を課しちゃったら、他ならぬ自分に対して失礼でしょ・・・苦しいし。
・・・・・・・・・ていうか。
魂(真我)に物覚えもクソもあるかいなっ!
記憶力の良し悪しなんて所詮、肉体限定機能の微々たる差異でしかないわっ!
真の自分は肉体超えたところにあるんじゃー!!!
・・・ふぅ。
突如沸き起こったトヨ氏の心の叫びはスルーしていただくとして、私たち人間はこんなふうに自分を錯覚しまくって、意識が真の自分からどんどん遠くへ離れていってしまうのです。
いわば魂の健忘状態。
離れるほどに、自分が何者かわからなくなってしまいます。
(顕在意識上はその自覚がなかったとしても)
そういうわけで私たち(魂/真我)は、真の自分を思い出す旅(=輪廻転生)を延々と続けているというわけですね。
なので魂の目的は、ひとつ。
『真の自分を知る(悟る)』
しつこいですが、もうほんと、これに尽きますよね。
苦しみのまま据え置くか、自分を知る材料に転換するか
私たち(=魂)は自分が本当は何者か知りたい・・・。
で、真の自分を知っていくために必要なものが、体験と気づきです。
あらゆる体験と気づきは、本当は自分が何者か知るためにあります。
人生いろいろありますが、魂の旅路の壮大な流れからみると、肉体や外側のあらゆるもの、それらを活用して繰り広げられる体験や気づきは、全て自分を知っていくための材料なんです。
そういう意味で外側にある対象(自分以外の全て)は、別に執着心を湧き立たせて苦しみに陥れる存在というわけではなく・・・自分に気づき、自分を癒し、自分を悟るために必要だから存在しているのです。
だから、人生のうまくいかないあれこれを誰かや何かのせいにして恨んだり、被害者意識に陥って自己憐憫に浸ったまま一生を終えることは、せっかくの材料に手を付けないままってことになっちゃうので、実は魂にとってはあんまり生産性が無いかもしれませんね。
あ、もちろんやってもいいんですよ。
すべて自由だし。
他人のせいにしたり、被害者意識にめり込むような体験、ついでにいえば他人を傷つけたり迷惑を掛ける体験さえも、いつの日か来たるであろう気づきの材料にしかなりません。
魂は輪廻転生によっていくら肉体を取っかえても、記憶袋(インド哲学では心素/チッタといいます)ってのが自我意識と一緒に常にくっついてるから、自分の行為(=カルマ)から生まれた『印象』の種からは逃れられないんです。
『印象』は何もしなければいずれ必ず新たな体験となって花開きますから、人間は何度でも同じことを繰り返します。でも同じことを繰り返す体験もまた気づきの材料になるので、それもまたアリなんだと思います。
だけど、もし『私たち(=魂)の目的は、真の自分を知る(悟る)こと』だと理解して、その前提のもとに人生を生きるなら・・・
他者(=外側)に執着して意識のエネルギーをたれ流し続けるよりも、「この貴重な材料を通していかに真の自分を知れるだろうか?」という視点に切り替えて、自分に向けて意識を180°転換するほうが心がラクになるし、魂の喜びに直結するような気がしています。
魂の目的を理解しておくと、なにかと助かる
因みに・・・。
トヨの個人的な体感としては、
前回までつらつら書いてきた『人生の目的』は、『魂の目的』という大きな流れに沿うように、成長の段階ごとに設定されているようなんですよね。
魂の目的を果たすために今生の人生の目的が設定され、人生の目的を果たすための課題が随時やってくる、という感じです。
だから人生の目的に取り組んでいて迷ったり悩んだりしたときは、何はともあれ一度、魂の目的へと立ち帰ることをオススメします。
これこそが魂の最終目的地だからです。
『体験は真の自分を知る(悟る)ためにある』という観点から現状の悩みを俯瞰して眺めてみると、また違った観方ができるかもしれません。
- 悩みの原因になっている外側の対象が、自分を知るための材料だとしたら?
- 一体何に気づかせてくれようとして、今、人生に現れてるんだろう?
- この課題のクリア条件を魂次元の自分が設定するとしたら何だろう?
こういう視点に立つと、被害者意識や善悪の二極ジャッジなんて微塵も入り込めません。
客観的にしか、なりようがないのです。
私たち人間は客観的にものごとを眺めて冷静に観察・分析することではじめて、善悪や加害者被害者などの二極化思考から抜け出して、ものごとの本質を捉えることができるようになります。
そもそも人間の心理機能はもともとそういう仕様になってます。
スピ界隈でやたら邪険に扱われがちな『思考』の働きが、自分を苦しめるものじゃなくて、客観的な識別力による観察・分析で自分を助ける力強い味方へと進化を遂げたとき、ようやく私たちは人生の舵を自分に引き戻し、荒波でも転覆せずに舵取りができるようになります。
不要な機能なんて存在しません。
目的を果たすために必要だから、『思考』も備え付けられてるんですよ。
( ↑ ここらへんの文章はインド哲学的観点です。受け入れられない方は無理せず上手にスルーしてくださいね)
人生を安全航行にするかどうかは自分次第!!!
荒波(=外側)をどうこうするより、舵取りの腕(=客観的視点)を磨いたほうが手っ取り早いのです。
そしてどこへ舵を切るのか、目的地を知らないより知っておくほうが断然助かるというわけで・・・。
そう!!!
要は、魂の目的は ↓ これってことなのだっ\(^o^)/
『真の自分を知る(悟る)』
(しつこい位にお伝えしないと気が済まない粘着オタクのためご了承ください)
魂と一致して生きる
魂の目的に沿った生き方を模索しようとすると、はじめのうちはエゴちゃんが抵抗してくると思います。
二極的思考は敵味方をハッキリ区別するため、エゴちゃんが心に安全柵(=被害者意識や正当化や勧善懲悪の心など)を作るのにとっても便利なんですよ。
だから重宝しちゃって、エゴちゃんは二極化思考を断固として手放したくないんですよね・・・(気持ちはわかる。怖いもんね)
一方、魂の目的地は二極化思考を超えた先にしかないので、進むためにはせっかく作った安全柵をぶっ壊していかなきゃなりません。
なのでこの作業に取り組む段階は、間違いなく魂次元での一大転機!
意識の大転換点であり、未知の挑戦になります。
未知が苦手で安定大好きなエゴちゃんは現状に踏みとどまろうとして、怖れや不安を煽って必死に抵抗してくるでしょう。
そんな葛藤の中、もし「たとえ怖くても、自分が何者なのか知りたい!!」という想いが湧いてきたとしたら、それは間違いなく魂からの呼びかけです。
「こっちや、帰ってこーい」と私たちを呼び寄せているのです。
エゴちゃんをヨシヨシしながらも、魂の声に心の耳を傾けてあきらめずに自分(魂)と一致するための試行錯誤を続けていくと、徐々に内側に変化が現れてきます。
心にあった矛盾や葛藤が、あるけど以前よりは確実に静まってきます。
「怖いのは怖い・・・でもやりたいからやる!」という感じで、エゴちゃんの抵抗に屈せず、魂の声のほうを採用できることが増えてきます。
そうなってくると不思議なんですが、「この私が人生の目的を達成しないわけがないやん!やってやんよ!!」とさえ思うような、確信めいた謎の自信が内側から湧いてきたりします。
この新感覚は非常に興味深くておもしろいので、ぜひ皆さまにもお試しいただきたい。
きっと嬉しくて、にやにやすると思います(・∀・)ニヤニヤ
おわりに
魂の目的については今回で一旦おわりです。
てか、え!?
5000文字超えてるやん・・・こわっ
しかも魂の目的はシンプルなので、同じことを角度をずらしながらしつこくお伝えする形になってしまいました。でも、もともと説明がしつこいタイプなので、きっといつも通りでしょう\(^o^)/
・・・それと実は今回、魂と人間と世界の仕組みについて、もっとお伝えしたいことがあったんですよね。
でもそれについてはまたいずれ、別の機会に書いてみようかなと思ってます。
それではまた!




