あの~・・・。
いつ頃からなのかも、どなた発なのかも知りませんが、なんだか最近よく耳にするようになった、例の『二極化』というワード。
経済的・社会的な意味でも使われているようですが、スピリチュアル業界の方々もアセンション(次元上昇)というワードに絡めて盛んに情報発信されていらっしゃるようです。
「二極化の時代」
「二極化がはじまります」
「いよいよ二極化が本格化します」
「二極化が加速☆」
「二極化がやって来る!」
などなど。
今回はこの『二極化』を、ヨーガ(智慧の智識)の視点から眺めてみようかなと思います(無謀な挑戦の予感)。
というのも、ヨーガの世界観・宇宙観にも“次元(ローカ・Loka)”という概念が在るんですよ。悟りを得た古の行者さん方がその情報を伝えてくれていて、聖典(タイティーリヤ・ウパニシャッド)の中にも次元についての記述が確認できます。
因みにこちらはインドの行者さん、スワミ・クリシュナナンダ大師の著書にある一文です。読んでみて!面白いから~
《宇宙と私たちの関係》
インドの洞察力は目に見える世界を超え、宇宙には、複数の次元、現れの段階が在るという真理を宣言してきました。私たちが住むこの物理世界も、そのような次元の一つです。特定の密度と言ってもよいかもしれません。しかし、これは複数の宇宙が存在するという意味ではなく、宇宙には、その段階的アレンジメントによって、経験を通して知ることのできる、多くのレベルあるいは密度の現れ があるということです。これらのレベル、異なる密度の次元をローカ(Loka)と呼びます。
Bhu Loka、Bhuvar Loka、Svar Loka、Mahar Loka、Jana Loka、Tapo Loka、Satya Lokaは、私たちが知る物理次元よりも高い次元だとされています。通常の知覚では認知できず、見ること、想像することさえできない次元です。地球の物理次元より下にもレベルがあるとされており、Atala Loka、Vitala Loka、Sutala Loka、Talatala Loka、Mahatala Loka、Rasatala Loka、Patala Lokaという名がついています。14の次元があると言われていますが、それ以上あるかもしれません。これらの次元は、古代の預言者が霊的洞察ビジョンによって知りえた大まかな段階であり、人間が進化の過程で通過しなければならない経験の度合いを意味します。ローカと呼ばれる異なる次元の世界は、誰もが通過しなくてはならない進化の段階です。私たちはすでに、低い次元の世界をいくつも通過してきたのです。(中略)私たちは今、人間のレベルにいますが、人間世界がすべてではありません。これより低い次元の世界もあれば、もっと高い次元の世界も存在します。ですから、多くの聖者、賢者が諭してきたように、人という状態から、私たちはさらに進化していく必要があります。人を超えた、超人を目指す必要があるのです。
スワミ・クリシュナナンダ大師著『ヨーガ、それは宇宙の科学』P.5~6より引用
悟りを得た行者さんの実際の瞑想体験として、少なくとも14の次元が確認されているんだそう。
ん~・・・なんとも興味深い!!!
そんなわけで、次元という概念を有するヨーガの世界観の中では、現代の“二極化”というワードの現れをどのように観ていけばいいのかな?と、自分なりに考えてみたくなった次第です(どう考えても無謀・・・)。
以下はあくまで個人的な観方に過ぎませんが、二極化が結局何なのかよくわからない人や、流行りに違和感を感じる人、二極化に伴う“アセンション”キャンペーンの煽りに怯えている人などいらっしゃったら視点のひとつとして参考になるかもしれません。
といっても、ヨーガの用語を使いすぎても混乱必至なので、なるべくそこを避けてわかりやすく説明できたらいいなぁーと思ってるんですが、さてどうなるか・・・(汗)
さぁ!では早速いきましょうか~
まずはじめに、ヨーガで『二極』について述べた超有名な聖典といえばこちら!
◆バガヴァッド・ギーター第2章48節
アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であるといわれる。
バガヴァッド・ギーター(岩波文庫) 上村勝彦訳 より引用
アルジュナよ 義務を忠実に行え そして 成功と失敗を等しいものと見て あらゆる執着を捨てよ このような心の平静をヨーガと言うのだ
神の詩―バガヴァッド・ギーター (TAO LAB BOOKS) 田中嫺玉訳 より引用
(※訳者によって表現が異なるので2例挙げています)
『成功と失敗を区別せず、結果に執着することなく行為すれば、心が平らかになりますよ(=最終的には解脱に向かいます)』っていう意味ですね。
私が学んでいたヨーガ講座では『二極の対立を超える』という表現をしていました。
“二極”ってどういうことかというと・・・私たちがいる世界を表しています。
私達人間が体験しているこの物質世界って、どんなものも必ず変化するものであり、あらゆるものが相対的なんです。
この相対性は、上述のバガヴァッド・ギーターでは成功と不成功(失敗)という言葉で表わされていました。
他にも、朝と夜、光と闇、明と暗、ポジティブとネガティブ、表と裏、白と黒、高いと低い、近いと遠い、重いと軽い、熱いと寒い、早いと遅い、内と外、苦と楽、愛情と憎しみ、若さと老い、美と醜、貧と富、生と死・・・・・・・・・。
考えるとキリがないほどに、物質世界はこれら対立する二極のものを前提として、その二極の間を変化することで成り立っているんですよ。
要は、私達は相対(=対立する二極)の世界を認識しながら生きているわけです。
別の言い方をすると、この世界とは、相反する二極の事物が様々に変化している現れってことになります。
(つまり二極はこの世界がはじまったときからの前提であって、二極化≪する≫ものでも二極化が≪はじまる≫ものでもなさそうな感じがしますね。あくまでヨーガの世界観から観た場合の話ですが。)
で、ヨーガではこの二極の対立を超えることで平安の境地に達する(解脱)と教えられています。
お次は超えるについての説明にいきますよ~
ここからが結構難儀なんですが、気合入れてついてきてください!
(※ここではサーンキヤ学派の考えに基づいて説明させていただきます)
『超える』を説明するためには、その前に≪自分⇔自分以外≫の関係性について知っておいてもらいたいんです・・・が、文字だけでお伝えする自信が一切ないので、本来ならば図になどできるはずがない、してよいわけがない、壮大な宇宙の概念を無理やり図にしてみようと試みてみました。
でもなんとか、イメージだけでも・・・用語だけでも・・・。
あぁ無謀の極み・・・お許しください。
それがこちら!悟りの境地(真の自分を知っている状態)の図です!
ドーン!!
・・・なんかホントごめんなさい(´;ω;`)
こんなハズじゃなかったのに、なんだかとってもホラーな感じに仕上がってしまいました(汗)
えーと。
まず、水色の部分が本当の自分です。純粋意識・プルシャと呼ばれます。真の自分は永遠不変の『観るもの』として、自分以外の全てを観照する存在です。
グレーの部分が二極・相対の世界。私たちが認識している世界です。真の自分から『観られるもの(観られる対象物)』であり、根本自性、プラクリティとも呼ばれ、真の自分以外の全てを指します。
あ、因みに、『観られるもの』は、三次元的な物質だけでなく、肉体や概念、感情や思考、感覚や記憶なんかも含まれます。相対的で変化するものは全部観られる対象物です。
そして悟りを得る(=真の自分を知る)ためには、相対的な物質世界の事物が“自分ではない”ことを完全に識別して、『観るもの』である自分と『観られるもの』である対象物との混同を解く必要があるといわれています。
(よく「自分を束縛から解放しよう」っていわれますが、自分と自分以外とを識別することが束縛からの解放になります)
図中の紫色の矢印みたいに、対象物との混同を識別して、自分以外の全ては自分ではないことに気づき、執着も判断もせずにただ観照するだけの存在であることを思い出すことを解脱といいます。
ん~難しい!説明難しい!!
とにかく、自分以外のものを「これは自分ではない」と気づいていくにつれ、自分だと思っていた余計なものがそぎ落とされて、最終的には真実の自分に到達するよっていうことがなんとなくわかってもらえればOKです。
で、悟りとは反対に、自分=観られるものであると混同、同一化してしまっている状態が一般的な人間の意識状態です。これこそが全ての苦悩の原因であり、魂の病といわれる輪廻転生の原因でもあるといわれています。
その状態を表したのがこの図です。
こちらの図では自分(観るもの)が自分以外(観られるもの)に没入し、同一化してしまっています。
・・・正確にいうと、同一化したように錯覚してしまっています。
錯覚というのはどういうことかといいますと・・・実は一瞬たりとも同一になることは無いんです。
自我意識とそこから生じた執着が「私は○○」「私の○○」という意識を創り出し、本来は別物であるはずの≪私⇔対象物≫との混同が起こっている状態に陥らせているというわけです。
「私は肉体だ」「私が怒っている」「私の車だ」「私は社長だ」などという意識は、全て錯覚、勘違いからきているんですよ。
何しろ真の自分は“行為”や“所有”などという概念も無い、ただ観るだけの存在(観照者)ですから。
だから本当は、私たちは常にひとつめの図(=解脱)の状態にあるといえます。
それを忘れてしまって自分がわからなくなり、自分を探すためにグルグルと輪廻転生しているんですね。
(だから、インド哲学では輪廻転生は魂の病と言われます。)
この観るものと観られるものとの同一化はとっても大切なところなので、もう少し(しつこく)説明させてください。
観られるものである相対的物質世界の事物こそが自分であると錯覚している状態ということは、先述した通り、こんな感じの意識になりますよね。
「私は(名前)です」
「私は母親です」
「私は社長です」
はたまた、所有という概念に囚われます。
「私の子どもです」
「私の身体です」
「私のお金です」
でも!でもですよ!!
よく考えてみてください。
これらのどれも真の“私”ではないんですよ。変化していく二極・相対的なものであり、絶対に変化しない永久不滅なものではありませんから。
つまり、二極・相対の世界にただどっぷり浸かっているだけでは、永遠に真の自分を知ることは絶対にできないってことなんです。
真の自分を知るためにはひとつめの図のように、二極・相対の世界(観られるもの)から意識を離して、“観る(識別する)”視点を確立する必要があります。
・・・でね、この宇宙の仕組みを別の視点から考えてみるとこの物質世界の存在意義がみえてきませんか?
そう!私たちが認識しているこの二極・相対の世界は、“観るもの”である真の自分が、“自分とは何者かを知るため”に存在しているということになります。
↑ ↑ ↑
この部分、これを伝えたかった。これを伝えるために図まで作って長々と説明してきたのよ~
そうなんです。
私たちが認識しているこの世界は、真の自己を知るために存在しているんです。
私たちは対象物を識別することで本当の自分を知ることができます。
これって逆に言えば、対象物が無ければ自分と自分以外とを識別する機会も得られないってことです。
ヨーガの聖典にも同じことが記されています。
【ヨーガ・スートラ第2章18節】
見られるものは、照明・活動・惰性というグナの三つの性向を備え、元素(五大)と感覚器官から成っているが、その目的とするところは、プルシャに経験と解放(解脱)を与えることである。
インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)初版P.175より引用
文言の細かい説明は省きますが、『見られるもの(二極・相対の物質世界)の目的は、プルシャ(真の自分)に経験と解放(解脱)を与えること』ってはっきり書いてあるでしょ?
古のヨーガ行者さん方は、覚醒体験を通して物質世界を≪観て≫そのように識別したんでしょうね。
そして!
あやうく忘れるところでしたが話を元に戻しまして、『超える』ですよ。
もう大体これまでの話でお察しかもしれません。
相対の世界に真実は無し。
二極を超えた先に在り。
『二極の対立を越える』とは、二極・相対の対象物から自分の意識を切り離して、それは自分ではないと識別すること。二極どちらにも意識を引きずられず、ジャッジもせずにただ観る視点をもつこと。
これができたとき、束縛から解放され、二極を超えた新しい段階・次元へと到達するということになります。
これが現代でいうところのアセンション??・・・かどうかは・・・ん〜どうでしょう!?
はい、ここまでが前半部分になります。
いかがですか~?
非常にわかりづらかったですよね・・・無謀なことはわかってた(泣)
でも今回の内容って、真の自分を知る道すじを立てる上で、智識として知っておくのと知らないのでは雲泥の差があるものだと私は思っているので、機会があれば何度でもお伝えしていきたいと考えています。
しかし今回は次元と二極に関するヨーガの世界観の説明のみにとどまり、こんなに長文なのにも関わらず、まだ当初の目的の半分しか書けてないという・・・。
というわけで、この記事の内容を踏まえて次回は『次元という概念を有するヨーガの世界観の中では、現代の“二極化”というワードの現れをどのように観ていけばいいのかな?と、自分なりに考えてみたくなった』という当初の目的の後半部分、例の『二極化』というワードについて考えてみたいと思います。
管理人トヨの無謀な挑戦は続く!
それでは!




